2014.03.14 山眠る
14:18
独り語りです
落ち着いてはきたけれど、やっぱり日常に戻ると気持ちのアップダウンがありすぎる
一度何もかも吐き出してしまいたいので
時は過去に戻ります

震災の年、秋口の出来事でした
ウチの先住猫が変な鳴き声を出すようになりました
様子も怪しく、水入れをひっくり返したり、お風呂場をうろついたり…
歳も歳だし、少しボケちゃったのかな?と思っていました
でもあまりに急な変化と、そしていつの間に!?と驚愕するほど抱いた体が軽い

慌てて動物病院に連れていくと、診断は慢性腎不全
こうなるまで知らなかったのですが、高齢の猫には多い病気なのだそうです
腎臓が悪くなり、水分がどんどん体外に排出されてしまいます
うちのコの場合も、口から飲む量よりオシッコで出ていく量が多くて、
身体から水分がなくなり、脱水症状で痩せてしまっていました

その日から病院に通って補液(点滴のようなもの)をする日々が始まりました
腎臓の機能は一度損なわれてしまったら回復はしません
今残っている部分で、賄っていくしかないのです

薬は1日1回
シニア用だったご飯を腎臓用のものに変更
でも腎不全用のものは、塩分やたんぱく質を控えてあるため、喰いつきがよくありません
そして、飲み方を忘れてしまったみたいに、自分からは水も飲まなくなりました
少しでも水分を取れるようスポイトで口から流しこみ、
ご飯も小さいなスプーンで食べさせるように頑張りました

体重は増えません
先生には2キロを切ると危ないと言われましたが、1.9キロ位をいったりきたりしていました

そんなある日、朝から猫の様子がおかしい
動こうとしているのに、フラフラして立てないのです
折しもかかりつけの病院は定休日、仕方なく別の動物救急病院に飛び込みました
病気のことを伝え、診断を仰ぐと、血液検査をするとの事でしたが、
血管が細く(水分が少ないので)血を取ることができません
そして『この状態だったら、後は病院とかには連れて来ずにお家で看取ってあげなさい』と
言われました
病院からは泣きながら帰りました
震災の時でも一度も泣かなかったのに…

ぐったりと横になったままの翌日、うちのコを連れてかかりつけの病院に急ぎました
救急病院の先生には判断を任せられる気持ちにならなかった

いつもの病院でも足からは血が取れず、首から採血しました
血液検査で分かった事は、前回から驚くくらい数値が悪くなっていること
特に貧血がひどく、数値は普通の半分くらい
そのせいで立ち上がることができなくなっていました
体中の水分が足りなく、血も薄い
赤血球をつくるホルモンも腎臓で作られるため、自力では貧血の改善は無理でした
そこで提案されたのは、人間用の貧血治療薬の注射でした
但し、人間用なので、使い続けているとそのうち抗体ができてしまう
それまでに症状が改善することを祈るばかりでした

幸いにも注射の翌日には立ち上がれるようになり、一安心
その後も投薬と補液、2週間ごとに注射
相変わらず食欲がないので、便秘がちになり、便秘になると、いきむので具合が悪くなり、
食べたものをもどす
悪循環でした

どうしたらいいか考えあぐねているうちに、今度は尻尾の横に黒い部分が出来て、
何?と思った矢先に、皮膚が破れ、穴が開いてしまいました
いきみ過ぎて腸が破れてしまったのです
病院でもどうしようもありませんでした
貧血のため、身体は栄養不足で、被毛も所々禿げて、全体的に毛が薄く、皮膚も薄い状態
補液しても、前回補液で注射針を刺したところから、漏れることも何度もありました
皮膚が薄いので、当然腸に穴が開いても縫うこともできないのです

 ・麻酔を打ったら死ぬ
 ・縫えたとしても、皮膚が弱っているから余計に裂ける
 ・今回は腸が外側に裂けたけど、お腹側にも裂けたら腹膜炎になって3日と持たない

その時言われた言葉です

腸に穴が開いているという事は、要は垂れ流し状態です
出来るのは洗浄することくらいでした
その翌日には尻尾の反対側にも同じく穴が
尻尾はほとんど皮一枚でぶら下がっているような感じでした
朝は家のシャワーでそっと洗い流し、夕方病院で処置をしてもらう日々
毎朝今日は生きているか、帰宅したら息をしているか不安でした

この頃、色々試していたフードの中にようやく食べてくれるものが見つかりました
嬉しかった
人間、食べれるうちは大丈夫!って動物も一緒です
食欲が出てくると本当に少しずつですけど体重も増え、どうなるかと思った腸も自然治癒して
いきました

毎日の投薬と週何回かの病院通いは欠かせず、移動やテリトリーから離れるようなストレスは
絶対に与えられないので、旅行や帰省は止めました
大型連休は夫だけ帰し、私は家に残りました
どうしても…という時は日帰りで

体重が増えてくると、補液の回数も毎日ではなくなり、それも嬉しかったです
その後しばらくして抗体ができてしまい、注射の種類を変えました
血液検査で肝臓の数値も悪くなり、それ用の注射も打つことになりました
肝臓用の薬は1日2回
一時は補液はなくなり、投薬と注射のみで過ごせる時期もありました
その頃はMAXで2.85キロまで戻しました

2013年夏頃から段々食欲が落ちてきました
最初は食べるのですが、量が足りない
暑いせいかと思いました
前の年2012年夏も食欲が落ち、その時も2キロを切ってしまっていたのです
それから体重を戻した経緯があったので、今度もそうであってほしいと願いました
でも食欲は戻らず、ちょっとずつちょっとずつ痩せていきました

秋には補液生活再開
脱水が進んでいます
どんどん体重が減っていき、危ないと言われた2キロはあっという間に切っていました
この頃でMIN 1.65キロ
先生には1.7キロを割ったら心づもりをしておくようにと遠回しに言われました

週2、3回の補液回数がどんどん増えて、ほぼ毎日通いだした11月末のある日、
実家から電話がありました
母が余命宣告を受けたという事
末期がんでした

慌てて実家に戻り、話を聞きました
検査でガンが見つかったこと
もう末期で、あちこちに転移しており、手術はおろか放射線治療も無理な事
体力的に抗がん剤も止めた方がいいという事
よくもって3ヶ月、薬で痛みを抑えるだけしかできない状態でした

母は痩せていました
夏、お盆に日帰りで会ったときは変わりがなかったのに、見たこともないほど痩せていました
夏が過ぎる頃から食欲がなくなり、10キロ以上痩せてしまったのだそうです
普段から我慢強い人だったので、身体の不調も何とはなしに見逃してしまったのでしょう
家族も毎日顔を合わせているので、そこまで痩せてきたとはその時まで気づかなかったそうです

週末を実家で過ごして仙台に戻り、明けた火曜日が診察の日だと言うので、
その日は日帰りで立ち会うことにしました
母を一人で病院に行かせる気にはなりませんものね
(うちだけかもしれませんが)こういう場合、本当に男は何の役にも立ちません
私がしっかりしなければ、と覚悟を決めました
緩和ケアについて担当医とも相談しましたが、母は行く末を諦観しているようでした
どうしようもないことだと
そんな母に、あんたは他人の世話ばっかり焼いて気苦労をするからストレスでガンになんかなるんだ、と泣きながら言った親戚がいたそうです
そんなこと言われてもねぇ、と苦笑いする母が可哀想でした
泣きたいのは母の方でしょうに

火曜日は動物病院の定休日
平日は会社を定時で上がり、動物病院へ補液に
母の診察がある火曜日と週末は実家へ、、、というスケジュールをたてました
週末は動物病院は夫に任せることができます
仕事は定時上がりをしないと、病院には間に合いません
仕事がどうしても定時で上がれないときは、朝病院へ行って、残業で仕事をやっつけました
ちょうど12月で派遣契約が切れる事になっていたので、申し訳ないけれど、家の事を最優先で
休みも目いっぱい取りました

私が実家に戻っていた12月の週末、夜中に夫から連絡がありました
猫が横たわったまま身じろぎしないと
とうとうその時が来たと解りました
救急病院へ運ぼうとする夫を止め、見守っていてほしいと頼みました
戻りたかったけど、その時間には帰る術はありません

明け方4時過ぎに逝ってしまったと連絡がありました

日曜の朝、実家には用事ができたと言い訳をして、仙台に戻りました
玄関に着くなり涙が溢れて止まりませんでした
抱っこしても うちのコはもう動きません
土曜日の朝、家を出るときは甘えて、鳴いてくれたのに…
泣いて泣いて泣きました
文字通り目が腫れて開かなくなるほど
逝ってしまうのなら、せめて私が最後まで看取ってあげたかった

以前ぼんやりと、もしこのコがいなくなったらペットロスになるんだろうな、、、と
想像することがありましたが、現実には今そういう訳にはいきません
このコは、母が道端で保護して、私が飼うことになった猫でした
今の状況で、死んでしまったこと、実家に戻っていて看取れなかったことを母が知るのは
ショックが大きいと思いました
月曜は仕事に行き、火曜はスケジュール通り実家へ、そして水曜日に火葬
多分この数日間で、これまでの人生で泣いた分以上に泣きつくしたと思います

『母の看病に専念させるために、先に逝ったんだ』という人もいました
そういう側面はあるにしろ、なんでそんな事を言うんだろうと本当に傷つきました

こんな風になる前に、母がまだ自力で歩けるうちに…と旅行の計画を立てていました
北海道には母の妹がいます
一目会わせてあげたいと思いました
叔母も病み上がりと聞いていましたので、母にお見舞いがてら行ってみる?と聞くと、
行きたいという返事でした
猫の火葬を終えた週末、北海道へ
北海道では、ずっと叔母の家で過ごしました
母に、叔母に、猫の様子を聞かれるたびに、笑って写真や動画を見せたりするのは
本当にキツかった
それでも母を連れて行って、叔母に会わせてあげられたのは良かったと思います
叔母からは『入院することになったら連絡して』とこっそり言われました

今年のお正月は連休が長かったですね
毎週末帰省していましたが、暮れに実家に戻った時には想像以上に母は弱っていました
それ以前には食欲はないものの、食事時には薬を飲むために無理やり一口くらいは口に入れていたのですが、それすら難しくなり、水だけを飲み、眠っているときが多くなりました
医者からは無理に食べさせたりする様なことはしないように言われていました
私に出来ることは家の事、雑事で母を煩わせる事がないようにすることだけでした

実家に戻って数日、前夜までは何ともなかったのに朝起きたら声が出なくなっていました
驚いた
確かに数日前から鼻風邪気味ではあったのですが、咳も咽喉の痛みも何もなく
スコーンと声が出なくなったのは初めてでした
風邪でガラガラ声になった事ならありましたが、咽喉に大きな穴が開いてるみたいに
空気がスカスカ漏れる感じで、全く音にならないのです
レベルで言うと隣の人が私に注意を向けてくれれば、かろうじて聞こえるレベル
テーブルの向こうの人は無理
何より困ったのは電話では相手に何も通じないことでした

私が帰省してからの数日、母は水分以外採っていませんでした
いくら飲食に関して無理をさせないようにと言われても心配でした
大晦日、母を連れて病院へ
点滴をしてもらいました
正月休みが終われば担当医との診察があります
そこで緩和ケア病棟等の相談をする事にしていました
それまでは体調をみて、点滴に連れていけばいいと考えていました

元旦の朝、4時頃でしょうか
母の様子がおかしい、と姪に起こされました
急いで母の元に行くと、息も荒く、苦しんでいました
姪に救急車を呼ぶように頼み、急いで着替えてもう一度母の所へ
救急車は間もなく到着しましたが、病気・容体・掛かっている病院等の説明をするのに
少し時間がかかりました
何しろ声が出ません
父は不眠が続いて睡眠剤を服用していましたし、兄も起きてはきませんでしたので、
やはり私しかいません
救急隊員の方には迷惑を掛けましたが、救急車に乗り込み病院へ向かいました
半日前には点滴に来た病院
あの時入院させていたら、、、
或いは点滴などしなければ、もしかしたら、、、
今でも考えます

元旦未明の病院で独り、処置を待ちながら夫にメールしました
夫も自分の実家でしたし、時間も時間だったので連絡だけのつもりでしたが、
なんとなく目が覚めてたとすぐ駆けつけてくれました
頼れる相手がいて本当に良かった
特に病院や家とのやり取りでは、声が出ないのが致命的だったので

母は酸素マスクをつけたまま即時入院となりました
痛み止めは直接投与
朝になり、駆け付けた親戚がいるうちに、入院の準備をするため一度実家に戻りました
北海道の叔母にも姪に電話を代わってもらい、入院したことの連絡を入れ、再び病院へ
元旦でしたが担当医がいらっしゃって、容体の説明を受けました
『レントゲンを撮ったが、病状が悪化していて、このままではもって数週間だろう』と
言われました
病室に戻り、母についていました

家族や親戚が代わる代わる来ました
酸素マスクをしたままでも、母は周りを気遣っていました
腹水がかなり溜まっているので、仰向けのままで寝ているのは辛いらしく、
しょっちゅう体勢を変えるのに手伝いが必要でした
午後、叔母から電話があり、飛行機で着いたと連絡
叔母がきてくれて本当に良かった
酸素マスクをしているので、あまり話はできないのですが、叔母の言葉にうなづいて
手を握り合う様子は見ていて辛くて悲しかった

午後、回診のあと、もう一度担当医に呼ばれました
『診断結果よりも今の状態がかなり悪い。朝の話より余命はもっと短くなると思う。
病状の急変もあり得る。』と

夜になり、叔母と夫を家に帰しました
夫は私と一緒に残ると言ってくれましたが、叔母には翌朝に母の看病を交代してほしかったし、
夫には叔母を手助けしてほしかったので
叔母を先に帰したあと、しばらく残っていた夫に、母は身振りで『帰って夕ご飯を食べなさい』と言っていました
苦しい息の下でも人を気遣う人でした

元旦の夜は吹雪でした
窓から積もる雪を見ながら、早く朝になればいいと願っていました
夜は人を連れていきそうな気がします
うちのコもそうでしたし

ゆっくりと容態は悪くなっていくようでした
酸素をすう息は荒くなり、5分と持たず体勢を入れ替えました
痛み止めの回数も徐々に増えていきました
足のチアノーゼも進み、日付を越えた何度目かの回診で、看護師さんに『まだ分からないけど、もしかしたらあまり長くないかもしれません』と言われました
夜中に家族を呼ぶのには覚悟が要ります
家族も前日明け方からほとんど寝ていないでしょうから
母のモニターがナースセンターにありましたので、看護師さんに間際が近づいてきたら
教えてほしいと頼みました
朝までもってほしかった

母をじっとみていました
独りで決断を下すのが怖かった
家族を呼んだら終わりがくるような気がしました
段々と痛み止めの間隔が短くなっていました
目の焦点もあまり合っていないようでした
看護師さんを呼び、母についていてもらって姪に電話しました
今度も声が届かなくて大変でした
誰もいない面会室で叫ぶように息を振り絞りました
姪が伝えてくれたのでしょう
叔母から折り返し電話があり、母の容態を伝えると、すぐ行くからと言われました
吹雪の中、事故など起こさないといいけど…と思いながら病室に戻りました

痛み止めは限界まで頻繁に投与するようになっていました
15分間隔を置けば、次を投与できます
なるべく母に苦しみを与えたくなかった
しばらくして家族が来ました
その時には、はっきりと息が荒くなっていました
家族の呼びかけにもうっすら答えるか答えないかくらい
代わる代わる声を掛けながらも、母の様子は苦しくなっていきました
みんなが揃って1時間も経ったでしょうか
あれほど荒かった呼吸が段々間遠になり、母は最期の息をしました
2014年1月2日
救急車で運ばれ入院してから1日足らずの午前3時過ぎに母は逝きました
担当医も分かっていたのでしょうね
元旦朝から居たのに、臨終の診断もしてくださいました

母は告知を受けてから、ひと月と一週間程生きました
市の健康診断も受けていたのに、その時病魔が見つからなかったのは残念でなりません


『母の時は絶対に泣かない』と心に決めていました

家族が通夜の準備に帰る中、母の清拭は私と叔母で行いました
看護師さんや担当医に見送られ、私は霊柩車に乗り、母を連れて帰りました
通夜や葬儀の日程はお正月という事もあり、色々大変でした
私は何の準備もしていなかったし、当日は私がいなくても差しさわりがないとの事だったので、その足で仙台に一旦帰りました
必要なものを揃え、翌日3日に再び実家へ

通夜、納棺、葬儀、火葬、細かい作業や、必要なもの
何もかも知らないことだらけで、そしてそういう時に色んな常識を教えてくれるのは
いつも母でした
ネットや本で調べても分からないような細かい事
聞こうと思ってももういないのです

母は行きたくなかったのに、無理に私が北海道に連れて行ったと兄が周りの人に言っていたそうです
だから疲れて余命が縮んだ、とも
仲の良い兄妹とはいえませんが、そんな風に思っているなら直接言ってくれたらよかったのに
母が叔母に会いたい、行きたいと言ったのは私が知っていますから

葬儀では親戚から色々な事を言われました
最初はそれらしい事を言っていても、私が泣いていないのをみると、世間話
曰く、『私も不妊治療に○年通ったんだから、あんたもちゃんと通えばいいのに』とか
『今更だけど震災どうだったの?あんたのとこは大したことなかったんでしょ!私はビルの○階にいてすごく大変だったの』とか
母親の死に泣かないような娘に同情は不要という事なのでしょうか
遠方に住んでいる人には、震災の被害状況もあまり分からないものなんだな、とも思いました

そんな時でも、優しい言葉をかけてくれるのは、母の友人たちや近所の人たちでした
母と親しくしていた人たち
義母も何度となく優しい気遣いをしてくれました
幾度となく泣きそうになりましたが、堪えました
私がしっかりしなければ

四十九日も終わり、日々を過ごしています
生活が日常に戻っても、何をするのにもモチベーションが上がりきらないのです

今朝は母の夢を見ました
ふっくらしていた時の姿で笑っていました
一緒に住んではいなかったので、電話をすれば、実家に帰れば、母がいるような気がします
滅多に帰省しない、電話もしない不出来な娘でした

朝昼晩、いつも私の傍にいた、家族以外には懐かないうちのコの不在はただ辛いです
手触りも鳴き声も身体に馴染んでいるだけに、寂しくて寂しくて仕方ありません

人間と一緒にするなんて…という人もいるでしょうが、子供のいない私には、
独り暮らしの時からずっと飼っていたうちのコは子供みたいなものでしたし、
母は本当に大きな大きな存在でした
ひと月も経たないうちに、子と親と両方に置いて行かれた気がしています

本当に寒い冬でした

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